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昨日、担当編集者のひとりからメールがあって、文中に「一人称の主語の「自分」が多すぎるとちょっと気になるかな、」という指摘があった。
これはどういう意味だろうか。
三つの解釈が出来る。
「ぼく」「私」「筆者」「自分」「小生」「われ」「余」「オレ」「おいら」という数ある一人称の中の「自分」が多すぎる、という指摘。
「自分」」の話が多すぎる、という指摘。
そもそも文章に自分、という単語が重複して登場する、という指摘。
自分の考えでは、その三つの全てを合わせて、この曖昧な指摘に落とし込んでいるのか、と考えた。
あるとき、ある本屋で、日本語に主語は必要ない、という文章を立ち読みして以来、なるべく主語を使わずに書いてみよう、と試みている。
それはいつの間にか、それまで使っていた「ぼく」という主語をなるべく文中から排除する、という行為にどこかですり替わったのかもしれない。
主語を出来るだけ排除するつもりで、もう少し文章を書き直してみようか。
ただ、比較的最初の頃に書いた文章で、不注意にも、というか、無意識に「ぼく」という主語を使っている文章があって、それは妙に人懐こい印象を与えている。あまり楽しくない話ばかりを書いているこの本の文章の中で、多少とも柔らかな、あるいは「甘い」感触を与えたいなら、敢えて「ぼく」を多様しても良いのかもしれない。
「自分」の話が多すぎる、ということに関してはどうなのだろう。音楽ライターの書くディスクガイドではないのだし、本当ならもっと自分の話だけ書くことが出来ればよかったのに、と考えているくらいだ。これは、いま自分にとって関心のある音楽だけ、さらに言えば、自分もまた作ってみたいと思う音楽について書いた本なのだ。音楽家なら、まず音楽を演奏し、作品を作るべきだ、というのは正論だ。だが、いま新しい作品に取り掛かることが出来ずにいるから、その替わりにこの本を引き受けたのだ。
●les baxter/colors of brasil

エレヴェイターの中で流れる音楽プログラムのリストからは慎重に排除されているかもしれない、エキゾティックな記号に溢れた音楽。「アフリカン・ブルー」と「カラーズ・オブ・ブラジル」という2枚のアルバムを合わせた作品集だが、おそらく作者はどちらにも足を運ぶことなく、これらの音楽を作ったはずだ。ジャングルと砂漠。美しい湖と濁った水。鮮やかな色の布を頭に高く巻き、だが身体の大部分は露出している黒い肌の女たち。作曲家のイメージにあったのは、おそらくこの程度の記号だ。後はごく合理的にスコアを仕上げ、録音を済ませるだけだ。どの曲も似ている? 敢えてそうしているのです、と作者は微笑む。ヘンリー・マンシーニ「スロー・ホット・ウィンド」という曲の壮大な変奏、と考えればよいのか。混声コーラスがひどく美しい。「クワイエット・ヴィレッジ」の作曲者であり、数多くの映画音楽やイージー・リスニング作品を遺した音楽家。
●percy faith/my love

「夏の日の恋」で知られるパーシー・フェイス。1950年代の初頭から、最晩年の1976年までの間に膨大な量の録音をコロンビア、というレーベルのために遺している。
カラフルな管弦編曲を施した初期の録音も素晴らしいが、60年代に入ってからはコーラスを多く取り入れ選曲も若返り、「フォー・ゾーズ・イン・ラヴ」という作品など、むしろソフト・ロックの傑作として紹介されるべき。
さらに70年代に入ってからは、より複雑かつ洗練された和声やリズムを持つ作品を取り上げ、耳への贅沢としか表現出来ないような傑作揃い。その白眉が本作品。聴き物は多いが、シルヴィア「ピロウ・トーク」のカヴァーはヒップホップやR&Bを好む人にこそ薦めたい、まさしく睦言のためのBGM。これがエレヴェイター・ミュージックだと言うのなら、その行く先はもちろん最上階のスイート・ルーム。「歌のない歌謡曲」に於けるドン・ペリニオン。
連載・200枚のCDを聴く。その49。/小西康陽(2009年3月16日)
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